うつ病になった経緯を書きますよ、って予告していた件です。私は関東の某国立大学の大学院(博士前期課程)を修了(材料系)、工学修士として、材料物性の研究がしたくて素材系大手メーカーに入社、研究職(ハードウェアの技術改良)をしていました。新入社員研修と工場実習を終えて研究所に配属されたのは入社年度の6月でした。そこから15か月ほどで私は「うつ病」と診断されます。
もうめんどくさいからこれ読んどいて、っていうくらいよく似た事例を発見したので記事を貼っておきますね。これとの比較という感じで今回は話を進めていきます。
https://www.buzzfeed.com/jp/kazukiwatanabe/20170927
私がうつ状態になっていく経緯は、本当にこれにそっくりでした。そしてその後の行動も、です。当然そのまんまではないので違ったところも含めて話していきましょう。
目次
- 私は入社2年目だった
- そもそも上司も指導担当者も自分で扱えない物だった
- 終いのこの仕打ち
- 1日半後、私は目を覚ました
- 目を覚ましたということで面会
- 脳波とか頸部のエコー?とか検査
- 紹介先のクリニックで「うつ病」の診断
- 教訓めいたこと?無いよ
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私は入社2年目だった
冒頭に貼った記事にはこうあります。(太字はブログ著者(つまり私)による)
6月に情報技術部ソフトウェア製造技術課に配属された。
そして、9月からはプログラミング言語のC、Fortran、Cobolを使ってソフトウェア開発の実作業を始めた。
問題は、Aさんがこの情報分野のプログラマーではなかった、ということだ。大学院での研究は、通信分野のハードウェアの技術改良についてのものだった。
これと違うのは私の場合材料の物性や自己組織化の研究をしていたのが、ハードウェア技術改良の研究に配属されて精力的にやりながらも既にミスマッチに悩んでいた(それでも優秀な新人として表彰を受けたりしていました)のが入社1年目で、2年目の6月になって上司と指導担当者が急に変わり、プログラムを使った、膨大な数の装置の制御を任されたというところです。私はプログラム経験は皆無でした(配属希望を出すときのアンケートにもそう記しました)。
そして私が触らされたその言語はCなどのようにメジャーなものではなく、日本語の教科書が存在しないような言語だったことも特筆すべきことでしょう。
そもそも上司も指導担当者も自分で扱えない物だった
冒頭に貼った記事はさっきの部分からこう続いています。
Aさんは会社でプログラミング研修は受けたものの、実務で要求されるレベルは、研修内容を越えるものだった。自ら参考書を購入し、休日に勉強をしていたものの……。
Aさんは仕事についていけず、指導担当だった入社5年目のBさんら、周囲にも馬鹿にされ、絶望したと書き残している。
質問をしても「一瞬画面を見せるぐらい」でちゃんと答えてもらえない。答えられない質問をされた。そして、部署全員の前ではげしく非難された……。
この記事と私が違うのは、私は会社でプログラミングの研修など一切受けていない事がまずひとつですかね。あとマイナーすぎるものゆえ自ら参考書は買えないので英語でネット検索して調べられる範囲の事を(日本語の何分の1、十何分の1の速度で)少しずつ断片的に覚えていくという感じでした。
当然仕事にはついていけない。というか指導担当者も上司も、この言語触ったことすらなかったんです。なのに進捗にキレる。そもそも上は指導しようと思ってもできない。じゃあ誰がコレ触っていたのかというと外国人の派遣さん(日本語はビジネスレベルではない、英語もビジネスレベルではない)一人だけでした。この言語が触れるから雇われている人だったようです。忙しい合間を縫ってたまに謎の宿題だけ出してくれました。ただ記事のAさんのように、指導担当者からは罵倒と非難だけはバッチリされましたよ。
馬鹿にされたと言えば、私は残業は月20時間以上は禁じられていたのでずっと家で日付変わるまで、いや日付変わっても、休日も全部、持ち帰り勉強していましたからテレビなんか見る暇があるわけもなく、朝に指導担当者から「サッカー代表観た?」ってきかれて「勉強してました」って答えたら「非国民」って言われてみたりとか、まぁ会話って言ったらそんなんばっかでした。冗談じゃなく、わざとやっている、こんなのばっかでした。
もうこの辺から、職場が近づいてくるだけで心拍数は上がるわ、冷汗は出るわ、でした。あと昼休みが終わるときも同じようになりましたね。
終いのこの仕打ち
もう少し冒頭の記事から続きを引用しますと、こうなっています。
Aさんはこう記している。
「参考書もそうです。誰も何もサポートしてくれないだけでなく、非難。そもそも今まで情報をやってこなかった人間にさせる仕事ではないはずです。5年10年やってる先輩上司が非難しかしないことに絶望しました」
うん、これ凄く良くわかる気持ちです。これわざわざやらすんだったら情報の人間雇えよって思ってましたね。私の場合、 非難されるだけではなくて、進捗を聞かれた後、罵倒をされて、こういうことを言われました。「あの派遣に甘えて自分でやらないからできるようにならんのだ、あいつ(派遣さん)にはお前に一切ものを教えないように命令しておく」と(これをされるとマジで詰む)。ついでに「お前の研究者人生終わりだな、簡単に終わるなぁ」みたいなことも言ってましたね。つまり最初から伸ばすのではなくて潰すのが目的だってところが途中からもう見え見えになってきて。
これで私の場合もう、何もかも嫌になったんですよね。会社に行くのが嫌になったとかじゃないんですよ。もう、今から上司に会社辞めるって告げる手続き、いや、それをすっとばして総務の誰かにそれを言う?もしくはバックれて鬼電を無視する?捜索されて逃げる?実家に逃げて事情を話す?もうそういうのが完全にすべて嫌でした。こうなったのが金曜だったのですが、土日、そして迫りくる月曜と時間を過ごすのが嫌だったのです。時間が経つのが嫌だったのです。会社辞めれば後から何とかなるとか、そんな先のこと関係なくて、目の前に立ちはだかってるその軽微なものひとつひとつが、生きる事よりも遥かに嫌すぎて嫌すぎて。
フレーズとしては似てるけど読んでみた感想ではこれとはちょっと違うかも。
それで私は、冒頭に貼った記事のAさんと同じように、金曜退社後に(何も書き残すこともなく)自死を実行に移しました。ただし、部屋だと音で発見されるから、私の場合は外で、でしたけど。
1日半後、私は目を覚ました
意識が戻ったのは日曜日でした。正確には、意識が戻ったとは思いませんでした。ぼやけた天井が見えてて「あーマジか、死んでも続きあるのかよ」っていう感じです。そしたら看護師さんから名前呼ばれて声かけられて「あれ、生きてるのか」って気が付いたんですよね。これね、実は意識不明の重体だったんじゃなくて(最初は気絶してたけど麻酔とかいろいろされて、途中からは)超睡眠不足で寝てたんですよ。
ちなみにこの時、頸部損傷、肋骨骨折、左足腓骨骨折でした。まだうつ病の診断は下りていません。当然、自分がどのようになって生き残ってこういう怪我をして、どのような経緯で発見されて、どこに運ばれてきたのかも、何日経ったのかも何もわかっていません。後ですごく美人の看護師さんが話しかけてくれて聞いたのですが、この場所はけっこう現場からは離れた大病院の集中治療室でした。こういうことやらかした人は救急車がきてくれてもそれに乗った状態で、受け入れ拒否されまくって、たらいまわしになるんですって。実際そうなったらしくて、だから遠くの病院にいたんですって。
目を覚ましたということで面会
どんな順番だったか忘れましたが、はじめは警察の人だったと思います。内容はうろ覚えですが、生活安全課の人。確かに聞かれたのは、「他人によってなされたものではないですね?」ときかれて、「自分でやりました」と答えたこと。で「○○大学出てるんだったら今から警察官になってウチにきてくれたら歓迎だよ(さわやか笑顔)」で去っていきましたね。何も響かなかったですけど。
次は会社の総務の人でした。「実行する前に言ってくれれば」と言われましたが、言っても何もしてくれなかったのは明白だろ!と思いました。あとのことは覚えてません。
その後、同じ病院内の精神科の先生。これまた何話したか覚えてませんが、「タバコが吸いたい」と私が発言したことは覚えています。許可は出ませんでした。両親には警察から連絡が行ってるけど病院から、精神科の医師との面談が終わるまで来るな、と言ってあると告げられました。(これは両親が原因の可能性があるからでしょう。)じゃあなんで会社の総務はそこをスルーで面会できたのか意味がわからないですけどね。上司とかは当然来ませんでしたがね。
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脳波とか頸部のエコー?とか検査
後遺症が残りそうなものがないか、検査をたくさんされました。あまり覚えていないですが。幸いにして、身体を動かすことに関しては何も後遺症は残らなそうだということがわかりました。
それで私を監視下に置くための集中治療室暮らし(毎日メソメソ泣き続ける)が7日ほど続いて、その途中4日目くらいに両親と話しましたがこれもあまりよく覚えていません。7日目に両親に車いす押してもらっての外出許可が出て、真っ先にタバコを吸いに行ったのを覚えてるくらいです。
結局この何日か後、精神科開放病棟に一瞬入りますが両親が精神科閉鎖病棟入院を拒否して実家で様子を見ると言い張ったようで、「自傷行為」という診断なのか何なのかわからない診断のついた紹介状を持って私は実家に帰りました。
紹介先のクリニックで「うつ病」の診断
1か月くらいは一人にさせてすらもらえませんでしたね。実家に帰って近所のクリニックに母とともに受診して、ここで「うつ病」の診断がおりて精神科初診としては出し過ぎちゃうん?というくらいのたくさんの薬(SSRIと睡眠導入剤と抗不安薬)を出されて、ペンディングされてた休職の手続きや傷病手当の手続きなんかをしたのを覚えています。
「休職」、か。会社に戻るのか。嫌やな。くらいの事しか考える能力が当時なかったですね。ほんとに記憶があいまいになるくらい頭回ってなかったです。
と、この辺までが「うつ病」の診断が下りるまでの経緯です。
いまクローズで働いてるし、数年ドタ休してないし、軽度のうつの人かな?って思われてた人が多いかもしれませんが、割と重たい過去を背負っているほうだと思います。まぁ「企図」は症状の重さと相関は少しはあるかもしれないけどあまり関係ないですね。あれからもう、かなりの時間が経って楽しいこともありますし傍目には元気に生きていますが心の中で「そのままいっとけば、そのほうがよかったのに」という思いが消えたことは一度たりともありません。ちなみに、二度目を実行に移したことはないですよ。だからこれ以降怖いとか痛い話は出て来ません。
プログラムができる人にとってはあまり共感できない、甘い、と感じる話かもしれませんね。でもそれは基礎を時間かけてやった結果出来るからですよ。できないことがないという人はいないでしょう。理系でプログラムができても、たとえば私から言わせれば基礎的な「X線構造解析で使う逆格子空間」とかで挫折する人はいっぱいいますからね。そんなこと解らんやつは素材企業に来るなってハラスメントする奴は素材企業にはいましたし。その辺は共感能力の問題だと思ってください。
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教訓めいたこと?無いよ
私がまた同じ場面に陥ったら、また同じように自死を選ぶと思います。だから私はこの件から何も学んでなどいません。
言えることがあるとしたら、これから社会に出ていく子を持つ御両親にです。入社から間もない時期にヤバそうな電話があったりしたら「そんな会社、大企業でもクソッタレだから辞めてしまえ」って言ってあげてください。こういう事例を防ぐ方法はそれしかないでしょう。私も両親にはSOSを出しましたが二人とも「負けるな、頑張れ」で終わりでしたから。「やめて帰ってこい」が言えた人と言えなかった人の対比が描かれた本がありましたね。実はこの本の本質はここですよ。
その上で私から教訓めいたこと言えるか。言えません。というか、ハッキリ言っときますけど、ここから何か学ぶべきなのは私じゃないでしょう。なんで私がこの件から反省・学習しないといけないんです?狂ってるのは私ですか?違うでしょ。狂ってたのは上でクダまいてたアイツラのほうじゃないんですか?私がオカシイ?本当にそうですか?
今回はこの辺で一区切りとします。1度目の休職~復帰編を次に書こうと思います。
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