そういう気分なのでちょっと自己受容について話しましょうか。お花畑なトークをするんじゃないですよ。現実的な話をします。
あなたの得意なことは何ですか。長所は何ですか。何でもいいです、いくつあっても構いません。
元気だ、気遣いできる、足が速い、力持ちだ、スポーツが上手い、モテる、容姿が良い、話や文章が上手い、IQや偏差値が高い、音楽や美術に秀でている、営業成績が良い、特許をたくさん出している、筆頭論文のインパクトファクターが幾つ、何ヶ国語も話せる、年収がいくら、権威がある、単著が何冊ある、会社をいくつも立ち上げた、不労所得がある・・・
本当に何でもいいですよ。こんなに立派でなくても、もっと立派でもなんでもいいです。
それでは、その能力や特徴が全部ない、もしくは失ったあなたを想像してみてください。そいつに存在価値はありますか?生きてていいと思いますか?
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存在の肯定に条件がないのが受容
これで、「そんなの存在の価値と関係ないし生きてていいに決まってるだろ」と思った人。解ってる人には言う必要ないですね、それが自己受容です。能力や外的評価云々で自分の存在価値への判断が揺らがないということです。
存在価値ないと思った人、そんなの自分じゃないと思った人。あなたはとてもストイックで、努力家なのでしょうね。世間様が怖くて必死なんじゃないですか?それ他人の人生を生きてるんじゃないですか?
そのたゆまぬ努力は、厳しい社会(しばしば内面化した親である)から投影された拝金主義や弱肉強食、権威主義などのプレッシャーから不安定な自我を守るために自己愛(≠自己肯定感。あえて言うならば「虚栄心」に近い)を強化しているだけです。それをいくらやっても自己受容には至りません。自分を愛すか愛さないか、条件付きで決めているからです。しかもその条件は自分の外にあるモノサシで他人に勝っただの負けただので決める。自分の人生を生きてない。自分の存在そのものへのリスペクトを欠いているのです。
こうなると自己研鑚イコール自己否定。高みへ行けばいくほど、理想にそぐわない「ありのままの自分」との距離は遠ざかっていきます。自信がついたと感じていてもむしろどんどん自分が嫌いになります(=自己肯定感が下がる)。
そういう話を具体的に書いたのが例えばこの記事です。暇な人はどうぞ。
「自分を愛せないものは他人を愛すことはできない」の真意はコレ
よく言われることですがピンとこない人も多いでしょう。むしろ自己犠牲こそ愛なんじゃないのか、と思ってる人も多いのではないかと。
残念なことに、自分を愛するのに条件を付ける人は他人に対しても自分の時と同じような条件を課します。存在そのものへのリスペクトではなく、「○○だから尊敬する」「□□だから愛する」しかできません。自己受容のできない者は、他者も受容できないということです。なぜなら、存在自体をリスペクトするという発想がそもそもないからです。
やたらとマウント取ってくる人、やたらと比較したがる人、やたらと自慢する人、イキってる人。あれは、ありのままの自分を愛せないので「この頑張って磨いた自分を愛してください」と表現してるんですね。自己肯定感が低いがゆえにやっているのです。
自己受容ができていない問題は、冒頭で挙げた個別の能力のようなものではなく、拙い対人関係や自身の心の不調として後々になって顕在化するのです。
練習で身に付きます
自己受容ができるかできないかは、だいたい親(遺伝ではなく、思春期くらいまでの育てられ方)で決まると思います。できないのはあなたが悪いのではありません。なのですが、後から身に着ける方法はあります。偉そうに語ってる私も進行形で、未熟ながら練習中と言ったところですから。
今すぐ精神科デイケアに行って第三世代CBTのACTを実践しろ!とか言うんじゃないですよ。まぁ「マインドフルネス」はやっといて損はないと思います。他にはそうですね、「インナーチャイルドワーク」とかも効く人は効くでしょう。
私がおすすめするのは他人との関係を使う方法です。これは本で勉強して実践できます。他人を積極的に無条件リスペクトすることで、その感覚を身につけていくことを推奨している本があります。これが一番手っ取り早いと思います。けっこう新しい本です。読んだときは、この本が10年はやく出ていればなぁ、としみじみ思ったものです。
これを読む前段階として、同著者のいい本があります。自己受容は幼少期から10代で身に着ける感覚(補足:そのほかにも、愛着の噛み合った人間関係や、子を育てることで身に着くこともあると思います)ですから、子供向けだと思って舐めない事です。これは思春期のお子様がおられる方にもおすすめですね。これも割と新しい本です。やはり10年、いや20年前に欲しかった本。
自分の存在を無条件に肯定するのは逃げでもないし向上心がないのでもありません。逆にその足場無くして社会に出るなど、砂上に楼閣を築くことと同義と思わねばなりませんよ。崩れゆく足場は、「火事場の馬鹿力」を「出し続け」なければ維持できなくなります。