ちょっと懐かしい、若き日の話です。高校からは遠く離れた大学へ進んだ私でしたが、高校の同級生が1人同じところへ入学しました。別に仲良いやつじゃなかったんですけど、大学で友達できはじめるまでヘコヘコついてくるタイプのやつだったんですよ。そいつ、やらかしてくれたんですよね。何したと思います?
履修する単位、「全部」私と同じにしやがったんですよ。全部。
あのね。私だって大学で履修登録するのは初めてで、不安いっぱいだったわけ。私が間違っててこの時点で留年確定の可能性だってゼロじゃないわけ。それに、お前知らないかもしれないけど卒業には不要な講義もいっぱい登録したんだよね。だって私は色んなこと知りたかったから。
それでね。その後、それぞれにぼちぼち友達ができてグループ化してきたころに言われたんですよね。
「お前、無駄な単位いっぱい取っとんのな。○○がシラバスちゃんと読んだ方が良いって言ってたぞ」
ちーん。私は彼と縁を切りました。今後のご活躍をお祈り申し上げました。
目次
スポンサーリンク
まずは当事者意識を持とうぜ
過去にこんな記事を書きました。自分の幸せは自分の基準で決めよう、コンパスとモノサシは他所から持ってきちゃいけないっていう話です。
冒頭の彼、ひっとつも自分のモノサシ出してきていませんよね。誰かに同化しようとして、他の誰かに何か言われたらそいつに同化して。
それで「何者か」になったつもりでアドバイスまでくれてしまった。しかも他人の言葉で。言うまでもないと思いますが、だから私は腹が立ったんですよ。彼から当事者意識を全く感じなかったんです。
当事者意識がないから「誰か」になろうとするんです。テンプレートを欲しがり、それを絶対視してしまう。
「誰か」になろうとすると逆に何者にもなれない
貼りつけた記事でも言っていますが人生に当事者意識がないと、他人の人生を生きることになります。これでは絶対に何者にもなれっこありません。
自分が何者かであると言えるというのは自我同一性の話ですから、誰かと自分の同一視、同化によって実現するのは不可能です。「誰か」になろうとすると何者にもなれんのです。
誰々が何て言うか、に全く影響されないあなたの幸せの方向を指すコンパスとあなたの幸せの大きさを測るモノサシ、それこそがあなたが「何者か」を定める物なのであって、あなたの能力がどうであるとか所属する組織の権威がどうであるとか、その中での地位が何であるとかそんなことは、あなたが何者であるかにとってはクソどうでもいいことなんですよ。
途方もない魅力の正体でもある
芸術家がめっちゃカッコイイのはこれ、あまりにもむき出しの「自分」と、それが醸し出している主張の強さ、それに伴う孤独感とかなんだと思うんですよね。溢れ出る当事者意識。これはちょっと勝手なこと言い過ぎかな。
なんでもそうですが、「何々ヅラ」してそれに胡坐をかいて守りに入ってるやつが超つまらんのはこの「自分」、当事者意識が封印されてしまってるからだと思います。誰かに同化して「劣化版の誰か」になってしまっていて、そいつが何者なのか見えてこないんです。
実際、世の中は何者にもならなくても生き抜いていけます。無理になろうとしなくてもいいと思いますし、面白いあるいはカッコイイやつである必要などないですしね。ただし、「誰か」になるのは逃げでありながらも、苦しいことだと私は思います。自分の幸せがどっちにあるのか見失ってるんですからね。
何者にもなりたくなくて、その守りが鉄壁だったら、それはそれである意味カッコイイかもね、とも思いますが。探究する者。うん、カッコイイね。
なんか話わけわからなくなりましたね。おわりです。