このところ私的な記事を書いてるせいか、ブログ執筆時に感情的になり過ぎて誤変換とか脱字が大量に残ったまま記事をアップして、公開済みの記事を何度も読み返して修正するという実に不毛なことをやっています。しかも文章とか会話が通じない解ってもらえないと愚痴ってる記事群でそれやってるから超みっともない。そりゃその日本語では通じんわな。もはやダサすぎてほっこりと心温まるレベル。添削と推敲しない記事の末路はいつも悲惨だ。精神科はもう通ってます。手遅れだったけど。
ただし、感情的になるってのはまぁ必ずしも悪いことじゃないと思っています。湧き上がってからの出し入れでコントロールできてないのはひとえに私の未熟さ故なので弁解の余地がありません。でもね、感情には役割があって、抑え込んでしまうとその歪みが心に溜まってくんですよ。感じないように蓋してしまうと、オートマティックに心が歪むようになります。例えば悲しみに蓋をすると悲しい場面になった時に悲しくならずに心が歪みます。歪みが限界超えた時、ぽっきり折れるんです。怒りでも、喜びでもそうです。
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だから感情はありのまま感じた方が良いって話ですね。(表に出すかどうかは置いといて)「あっ、この感情出て来よったな」と客観視できて且つ、感情と一体化しない「観察する自己」に気付き意識しておく、というのは最近流行りの「マインドフルネス」の話ですな。そのように自分をありのままにみつめる時間は寝る前でも河原を歩きながらでもいいから取った方が良いのは確かです。歪みは定期的に開放しとけって話です。マインドフルネスはストレス解消法ではないけどストレス解消になるのはそういう理屈だと勝手に思っています。
あ、ここまでの無駄話は前置きで、こんなイラっとすることが書いてある記事を見つけたんですよね。
ここ20年ほどで企業内のメンタルヘルスが社会問題化してきたこともあり、「ストレス耐性」(ストレスに強いこと)を採用基準とする企業が増加してきています。
ストレス耐性を採用基準にすることには否定的な記事なので、記事をぶっ叩くつもりはないんですけどなんもわかってねぇなと思うのはこの記事の中にあるように企業様あるいは人事様が「内向性」「自責性」「敏感性」とかの指標で「ストレス耐性」が測定できると思ってるところ。
前置きで書いたみたいに、メンタル不調の人の中には「怒り」や「不満」に蓋して人付き合いに奔走してぽっきり折れた、超外向的で社交的な人が結構混じってます。根暗がメンヘラになるというのは単なる思い込み、偏見ですよ。
巷に出回ってる「仕草で分かるストレス耐性の見極め方」とか「星占い」レベルですわ。ストレス耐性なんて本当のところは外向的だろうが内向的だろうが、結局ぶっ壊れるまでストレスかけてみないと分からんと思うんですが。全員の耐性有るか無いかが判明したころには全員が、おめーらの嫌いなメンヘラになってるよ。破壊検査だってことだ。
だいたい、ニッポンのシャカイ様(笑)って「他責的な奴」とか「鈍感な奴」とかを積極的に八分にしてるか、もしくは執拗にイジメてませんかね。その辺の整合性どう取るわけ?どうせ取らないんだろ?またダブルバインドか。洗脳はやめろよな。見るだけで不愉快だわ。ブラックはこればっかりだ。それがメンヘラを生んでる原因にもなってることに気付けよ。こういう組織からは知性が感じられない。
で、「メンヘル対策したくないから」その基準で一見ストレスに強そうなやつだけ選んで何するの?これも見え見えで、「丈夫なのを選ったからこれまでよりいっそう乱暴に扱います」って宣言してるじゃないですかーやだなー。ストレス耐性を積極的に測定しようとしてくる会社はブラック確定だ。この記事の通り、採用力ないわ。こんなことほざく会社はシュリンクするまでもなく、そっぽ向かれて市場から退場して、どうぞ。
だいたいさ、「メンタルヘルスが社会問題化している」から「ストレス耐性のあるやつを採用しよう!」の発想に至るやつは知能が低すぎるか、何らかの人格障害が疑われるわ。精神科へ行こう。こっちのほうが深刻なメンタルヘルス問題の可能性があると指摘しておきます。
もうこんなやつらにこき使われる労働者は「奴隷」どころじゃねぇな、燃やしてエネルギーにされて排出される、「燃料」だわ。