とあるガキの頃の夏、欲しい欲しいと強烈にねだった「水鉄砲」を買い与えてもらった私は、こう言ってきかされました。
「他人に迷惑はかけるなよ」
考えてみれば、子育てに全く興味を示していなかった父が繰り返し発した教育的(?)メッセージはこれだけだったような気がします。
・・・
ところで話は変わりますが、ちょうど私がうつ病になる直前くらいに(たぶん診断されてなかっただけ)、上司が変わってハラスメントを受けていたころの出来事です。
別に珍しいことではないんですが、自分が痛い目に遭っているときだったので強烈に印象に残っています。
満員電車に揉まれていた時、人身事故で電車が運転を見合わせているとアナウンスがありました。そのとき誰かが舌打ちして言ったんです。
「他人に迷惑かけんなよ」
目次
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吐き気がした
この言葉を聞いて吐き気がしました。たぶん事故に遭った人、もうその呪いの言葉も聞けないよ、と思いました。それは言葉を発した人もわかっていたでしょう。わかってて言う、それが怖すぎて感情的になってしまって、半ベソで会社に行ったのを覚えています。
私から湧いてきた言葉
停止したままの電車の中で以下のようなことを考えていました(言ってはいない)。殴り書きの手帳の手書き日記から書き起こします。
労働環境、ハラスメント、差別、某かの膨大な「迷惑」がその人にかけられて結果として人身事故が起きたんじゃないか?しかもその人は「もうこれ以上(組織や家族に)迷惑はかけられない」って思いながら飛んだのかもしれないじゃねえか。そこまで追い詰められるのって、むしろ吹き溜まりで一番デッカイ迷惑被ってるような人では?電車が遅れるくらいの迷惑なんて、その人がシャカイ様から喰らったダメージ(迷惑)がちょっと染み出ただけじゃねえか。こんな悲惨なことが起きて、飛んだ人を責めるのはクレイジーだ。見えないところでやれってか。「臭い物に蓋」しか発想できねえのかよ。それとも反逆か何かに映るのか。シャカイ様は個人に迷惑かけ放題なのに逆は死んでも責められるのか。ところでお前はどっち側だ、俺は?
全部推測だったり論理がムチャクチャなうえ主語も大きくて意味が取れなかったり、飛んだ人以外の安全などに考慮が届いていないのは置いといてください。
ただ、「迷惑かけんな」って聞いて「それはオカシイよ!」って普段誰にも見せない日記に書き殴るくらい感情的になってたってことでね。
だけど感情的になったタイミングは
でも、こんなこと考えたのは「電車遅れるのか、またハラスメント受けるわ」って一瞬思った後でした。
私も「事故」より先に「運転見合わせ」に反応したということです。その点では責めた人と同じだったわけですね。
私は今、「うつ」を隠して仕事をしています
話が急に変わりますが、私はうつ病という精神障害を職場に隠しています。隠せるなら隠す、という選択をするのにはわけがあります。
これを開示すると勝手に「迷惑がられる」ことがあるからです。
迷惑だといって刺される可能性すらあるわけです。(この記事の投稿日の1年前、そのような事件が起きました)
「迷惑かけるな」は呪い
まず生まれてきた以上、誰にも迷惑かけないのは不可能です。なにかを与える条件や育ててもらう条件として子供が親から言われた場合、まず自己肯定感を下げる役割しかしません。絶対にどこかで、「迷惑をかけてしまった」と思う場面があるからです。
他人にかけた迷惑の総量を測ることも不可能です。意思疎通ができない障害者と、歴史の教科書に載っている独裁者は、または、ブラック企業経営者と、パワハラで精神を病んで電車を止めた人は、どちらが他人に迷惑をかけたでしょうか。それが多い(ように見える)か少ない(ように見える)かは、生きるべきか死ぬべきかの基準にしていいのでしょうか?モノサシが間違っていると思います。
電車の話に戻ると
あえて手帳に記した日記を載せましたが、あれが今の私の意見ではありません。あの電車での一件から相模原の事件の間には新幹線での一件もありまし、「ダメージがちょっと染み出しただけ」では済まないことも起きています。
だからって事前に「迷惑かけんなよ」って言っといたら防げたとは思えませんよね。
「不寛容」と「決めつけ」
ここでタイトルの話になります。「不寛容」はこの記事で言うと電車の話の原因だと思います。そこに至った過程まで含めての「不寛容さ」ね。
短く言うと「世の中が寛容で逃げる場所があれば防げた」という話です。
「決めつけ」は私がうつを隠してる話、そして障害者が差別の犠牲になった話の原因だと思っています。ここには「不寛容」も当然絡んできますね。
短く言うと原因は「障害者は誰にとっても迷惑」という決めつけと、「自分には関係ないと思ってる福祉は不当な利権だと思っている不寛容さ」だろうなと。
話、まとまってないけど終わりです。