ブロブロスキーのブログ

スキーと釣りが趣味の院卒の30代オッサンのブログ。気まま、手軽、あるがまま

「報われないのは努力不足(※ただし格下に限る)」努力教の闇

スポンサーリンク

私が最後に「うつ」で仕事をドタ休したのはもう何年も前で、前の会社に勤めていた時です。今は病気自体を隠して仕事をしていますが、それでも調子の波があって月に1回くらいはドタ休の危機があります。何十回とそれを乗り越えて出勤しても、危機感は消えません。

 

本来起きるべき時間の1時間前には起床して鉛のように重い体で服薬し、また横になって最悪の気分に耐え、効いてくるのを待ちます。運動が少ない日の仕事上がりには残業があっても有酸素運動をすることを心がけており、しんどくてもあえてウォーキングやジョギングを10kmくらいしています。やらないと眠れなくなるからです。

 

現状を維持するためにやっていることです。成長や自己実現のためではありません。私の場合、歩くことなどそれ自体が好きなのもありますが現状維持(出勤)のためには、最低限これくらい必要です。

スポンサーリンク
 

 

ところで世の中には、いろんな不幸な結果を「努力不足の自己責任」で片付ける風潮があります(格下限定で)。わかりやすく所得で考えると、割と多くの人が、資産家の稼ぎ方と額を見て「努力が報われない」と嘆いてみたりします。自分より所得が低くて貧困にあえぐ者には「努力が足りない」と冷徹な言葉を投げかけます。

 

多くの資産家は大きなリスクを取って、(たぶん)一般的な労働者より適切かつ大きな(お金を得るための)「努力」をしてきたであろうことは無視していますね。(世襲を見てクソーッとなるのはまた別の話です)

 

貧者に対しては、その人がどんな事情を抱えているかを知ろうともせずに「努力不足の自己責任」で切り捨てますね。もちろん、冒頭のような「病気の現状を仕事に合わせる労力」が彼らから努力と認められることなどありません。私も努力だとは思っていませんし。

 

これが経済的弱者に「風潮」として襲いかかってきます。

 

何故こんなことになっているんでしょうか。それは、上記の一部の人たちは自分がやってきた努力が最大限であり最も正しいと(自己暗示をかけて)信じ込んでいるからです。尚且つ自分の地位や能力はすべて努力によって得たもので、そこまでは努力すれば誰でもできるとも思っているからです。それ(ただの自己暗示)を絶対に侵されない聖域にしてしまう。だから、格下限定で「努力」を持ち出し、それ以上のものには「才能」と言ってみたり「卑怯」と言ってみたりします。

 

聖域にできてしまうのは簡単なワケがあります。努力は「他者」から測定できないからですね。どんなときにも「最大限にやった」と申告することができるのがこの「努力」だからです。この自己暗示にかかってしまったが最後、「格上は才能・卑怯、格下は怠け・甘え、俺の努力は最大・報われるべき」で思考停止します。脱出は困難です。

 

恐ろしいことに、この自己暗示は結果の出ていない人ほど陥りやすい構造になっています。結果(成功体験)という「よりどころ」がある人は、努力に内容があること(目的へ向かう正しい方向があること)、努力に量があること(自分が必ずしも最大ではないこと)を知っているからです。知らない人が「自分の努力は適切かつ最大」に縋りやすい。「結果」の出にくい「不況」で弱者に対する自己責任論が強まる(ような気がする)原因のひとつではないでしょうか。

 

しかし、(経済的)成功者の中にもこの「努力」をやたらと強調する人がいます。これは言葉通りに「俺はこんなに努力した、お前らもしろ、したら報われる」という意味でとらえていいのでしょうか。私はたぶん違うのではないかと思います。これは上記の思考停止状態の人を増やして、格下に格下を管理させて自分を頂点とする支配構造を強固にするために言っているのではないでしょうかね(個人の感想です)。

 

なんか偉そうなお前はなんなんだ、と言われそうですが私は単なる労働者(オマケで病気持ち)です。「通勤ができる状態」の維持のために何の成長も伴わない、割と空しい労力をかけています。「努力を認めてほしい」わけではなくて、「こんな労力はできればかけなくていいようになりたい」としか思っていませんが。

 

このために、「所得を得るための労力」は減らさざるを得ず、ハッキリ言って不足しています。だから私が金持ちじゃないのは努力不足認定オッケーです。ただもし余裕があったからって、カネを最大化することに全ては注ぎませんけどね。この記事ではわかりやすく所得の例を出しただけですから誤解のなきよう。才能も努力も否定しているわけではありませんのでそちらも誤解のなきよう。