春になってくるとさっさと仕事上がると陽が完全に沈んでない時があって、ホッとします。それだけで救われたような気持ちになります。陽が長くなるというのは本当にありがたいですね。やっと冬が終わる・・・冬が終わるといえば今シーズンはウォーキングにハマったせい?で全然スキー行ってないです。趣味なんで、無理してやるものではないですからしんどいなら行かないが正解なんでしょうきっと。
心の方の調子が良くならないと思い切って遠出するというのもおっくうになりがち(そもそも土日に早く起きられない)です。正月にスキー行けたのは、会いたくない人から逃げるという大義があったからです。そっちの方が重要だったということですね。
こうして考えると今の私は、仕事のためには生きてないけど「うつ様」のご機嫌をうかがうために生きているような、そんな感じなのです。
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「うつ様」はいつでもどこでも私の前に立ちはだかってきます。仕事に行くときも、遊びに行くときも。いつも私の心にまとわりついて、足枷をつけに来ます。寝てる時にまで、私に悪夢を提供してくれます。時には私にのしかかって身動きすらとれなくしてしまいます。
私はいつもそのご機嫌をうかがい、こっそりと抜け出すように仕事に行き、遊ぶのです。ご機嫌を損ねると、あっという間に巨大化して私の行く手を覆い尽くしてしまいます。地雷原の中を歩いているような緊張感です。
救いはあります。それは私が「病識を持っている」ということに尽きるのですが、「うつ様」や「憂うつになっている私」と言うのはあくまで私が認識する認識対象であり、「それを認識する私」というのは「うつ様」に害されないということです。
日々の天気のように、心の中には雲が立ち込めたり、雨が降ったりします。ですが、ひとたび雲の上に出てみると、いつでも空は青いのです(夜は黒いっていうツッコミはナシで)。うつの病識を持つというのはこういうことだと思うのですよ。心には曇がかかったり雨が降ったりするのですが、それを俯瞰で眺める青空になることは可能であるという気付きです。「うつは私そのものではない」「思考は私そのものではない」という気付きです。それらは認識対象に過ぎない。
わけわかんないですよね。そうです、うつの病識を持つということはわけわかんないんですよ。気付かなければ、言葉で説明されたってわけわかんないんですよね。青空である「認識する私」には執着することも、認識することも、害することもできない。ちょっと考えてみてください。答えなんてありませんけどね。私の救いになっているのは、このわけわかんない「認識する私」なんですよ。