久しぶりに「フツー」に仕事をこなせた気がします。私にとって「フツー」とは、2割くらいの力の入れ具合で自分の仕事が定時前に終わり、余った時間で誰かの手伝いをする状態の事です。
正直言ってこれでも仕事に持って行かれる時間が長すぎると思います。「フツー」とカタカナで書いたのは「普通ではない」と疑っているからです。
誰がこんなことを「当たり前の事」にしたのか。産業革命以後の超長時間労働時代を経て各国で労働運動があり、1919年にILOの第一回総会で「原則最長で1日8時間、週48時間労働」を労働者は国際的基準として勝ち取ったのですね。
日本はこれに未批准ですが労働基準法はこれを参考に作られていることは間違いなく、労働基準法では原則として最長の労働時間は1日8時間とされています。
もちろん、これより短かったらダメなんてことは何処にも書いてありません。なぜ、ほとんどの仕事の最低労働時間が「原則、最長」の8時間に張り付いているんでしょうね。そしてまるでそれが「最低労働時間」であるかのように語られる。これは1種の刷り込みで「みんなそうしてるから」というやつだと思うのですが、「みんなやるようになった」のは限界まで働かせた方が(経営者が)儲かる(時代があった)からでしょうね。
今でこそ一部でその幻想は崩れつつありますが、世の中にブラック根性論は根強く残っています。
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8時間労働は原則最長の労働時間
そもそもイギリスで産業革命以降14時間以上働いていた労働者が「長時間=効率が良い」を否定するのにはそんなに時間がかかっていません。
なぜ誰も疑問に思わず当たり前になるのか
いつまでたっても「謎の(時に滅茶苦茶な)当たり前」が「みんなの当たり前」のまま理不尽に君臨するのは「哲学」をしないからであります。
哲学は、いろいろな言い方ができますが基本として「今ある当たり前を疑う」ことから始めます。
ここでいう哲学をするというのは年表を見て哲学史を勉強するという事ではないですよ。
足りていないものは
この社会には哲学の成分が足りていない、もっと広く言うならば、教養が足りていない。原因を探るならば、「枠組みの中で働けば働くほど豊かになる時代」に教育が「教養」を軽視して「実学」に舵を切り過ぎたからだと思います。特に大学。人文系は「役に立たないからポイー」だったわけです。
今もその流れを加速させようという輩がおりますね。何やら保守(を名乗る)団体にそういうのが多いですが、それはおかしい。戦前の日本では高等教育を受ける者はまず「デカルト」「カント」「ショーペンハウエル」を徹底的に勉強したことすら知らんのでしょうね。
外部要因が大きいとしても、個人的にはその教養が残っていたから、その人たちが戦後の日本の奇跡的復興を引っ張ったのだと私は思っています。
新しい枠組みを作ったモノが勝つ時代です
さて話は戻りますが、哲学をしない人間は今ある当たり前を疑わないので、「新しい枠組みを作り出す」のが決定的に下手です。
現代は、枠組みをぶっ壊して自分達でルールを作り出し、その中で商売したものが多くを手に入れる時代です。ガラケーが(電話という枠をぶっ壊した)スマホに駆逐されていったのを見ていない人はこのブログの読者にはきっといないでしょう。あれがまさに象徴的なのです。
最近話題の例で言うと
もっと最近の例で言うならば、検索上位が儲かるという枠組みの中でだけ目先の利益を追求したwebサイト郡が、ルールを作った側の裁量によって滅びていく過程を私たちは見ていますね。新しい枠組みを考える側に周らない事には、こういったポッと出で小銭を稼ぐ連中しか現れないでしょう。
それをやっていた連中に「教養」があったかと問われればみなNoと答えるでしょう。「だから教養を」というのは少々論理が飛躍しますが、そこに「今ある当たり前」を疑っていないからそういう商売しかできないのだということを差し込んでみると意外と説得力があるのではないかと思います。
もう今日はめんどくさくなってきたのでそのとびとびの論理を説明することなくこの話は切り上げますが、まぁ頭の中で補完して読んでください。続きがあるかもしれません。なかったらゴメンネー