ブロブロスキーのブログ

スキーと釣りが趣味の院卒の30代オッサンのブログ。気まま、手軽、あるがまま

病者を背後から撃つな、病者は病気と闘っている。敵は共通のはずだ

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私は「うつ」を隠して仕事をしていますから、当然ドタ休はできません。もしするにしても別の理由が必要になります。そうならないようにだいぶ力を抜いて仕事をしています。

 

でも、別にふだん何割の力で仕事していようが、「うつ」に支配されたときはダメでしょうね、ドタ休になるでしょう。幸い転職後まだそんな波は(平日には)来ていないのですが、隠して仕事をするというのはかなり危ない橋を渡っているのだろうなと思います。

 

なのに何故、私がうつを職場に隠すのか、まぁ理由は皆様の想像通りですよ。

 

「理解がない」と言ってしまうのは簡単ですが、私の「うつ」を理解するのは未だ寛解に至っていない「私の症状」を味わってもらわないと不可能だと私は思っています。そうすると理解してもらうことは、「うつ」になって「治らない」状態を要求することを意味しますから、そんなの誰も得しない。それで「うつ」への理解を願うことを私はやめました。

目次

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それでも主張しておく

これは「うつ」そのものを理解してもらうことに力を注ぐことはやめました、という意味です。

 

でも、何も主張もしないのではせっかく「うつ」の理解者たりえる状態になった私が報われませんから、少し何かわかりにくいことを書いておきます。

 

知らない人は当然「うつの私」を私と思う

話が前後しますが、私は今「私がうつ病であること」を知らない人たちの中で仕事をしています。このコミュニティでは、「うつ病の私」が発揮しているパフォーマンスや、私の態度、言動が、「私」とされている。これが悪く評価されれば、もちろん「私」に対して批判が起こるのです。それを選んでいるということです。

 

取り戻せていないものを取り戻せるはずと詮索されたくない

それを選ぶのはなぜかというと、病んでいない時のパフォーマンスや態度、言動を推測されるのが嫌だからです。

 

私自身が取り戻そうとしても取り戻せていないものですからね。もっとできるはずと思われたら、「やらかしたとき」の敵意を増幅させかねないのです。

 

「病気」と「病者」の区別

精神疾患は、身体症状もありますが目に見える形では「考える能力、意欲の低下」、「態度」や「言動」として症状が現れます。

 

だからだと思いますが、たとえ「脳が委縮、変形することだってあるんだぞ」と伝えたところで、その病気を憎むのではなく「病気を抱える人(病者)」を憎んでしまうパターンが多いです。

 

病者が立たされる状況

こうなると、病者はどういう立場に置かれるでしょうか。病者は既に

「病者⇔病気」

という構図で戦っています。ここに、「病者を憎む人」が加わるとどうなるでしょう。

「憎しみ→病者⇔病気」

と背後から攻撃されて挟みうちにあいます。そりゃ病者は負けますよね。ここでいう「憎しみ」は病気と病者の区別がついておらず目の前に見えている病者を攻撃するという事です。

 

病気を憎んで人を憎まず、きれいごとではありません

「うつの症状を理解してくれ」ということは、上記のとおり、私には言えません。そこで私は何を主張したいのかというと、「病気だと聞いたら、よくわからなくてもとりあえず病気そのものを憎むようにしてほしい」ということなんですよ。

「病者⇔病気←憎しみ」

と、こういう構図になってほしいということです。この段階ではよくわからないかもしれません。しかしこれは、実際に「うつ」になってそれを理解していない人でもできることです。うつになってみなくても、精神疾患は目に見える症状として「考える能力、意欲の低下」、「態度」や「言動」として症状が現れるという事だけ知っていればいいのですから。病気になったと言われたときに変化に気付けばいいだけなのです。その時にその変化をさせたもの、病気そのものを憎む気持ちを持ってほしい。

 

他の疾患・障害では比較的出来ている場面も見かける

目に見える病気に対しては、医者ですらない人間の社会でも基本的に病気にならないための方法を、病気を軽減させる方法を、悪化させない方法を考えてきました。

 

それが精神疾患に対してだけできないのは、少し悲しいです。

 

隠すのは自己責任ですが、隠さざるを得ない事情があるのです

私のように、職場で言わない奴は自分の責任でやっていますから、私が将来やらかした時に私そのものが責められるのは仕方がありません。うつだからと言い訳するつもりもありません。

 

私がカミングアウトできる日は来るのでしょうか。それとも、その前にまたぶり返してしまうのでしょうか。そのまま寛解するのでしょうか。それはわかりませんが、時代が変わったと感じられれば、私もカミングアウトするでしょう。