仕事の疲れが残ってて辛いです。予定外の事たくさんさせられたからです。どのツボ押されたら私はどんな反応してるのか、そこの所ポジもネガも書き記しておくと役に立ったりするんです。「自分を知る」ってことですよ。そこから自分の幸せについて考える。これ、教養の入り口なんですよね。
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哲学へ行くなら
まぁたとえばここから「自分とは何か」そして、「知るとは何か」、「私が知るとはどういうことか」(これくらいの課題なら生物学的にアプローチするのも面白いかもしれませんね)そして「私がこう考えているという事そのものだけが、疑いようのない事実ではないか」なんて方向に行けば哲学まっしぐらですし、「自分のルーツは」といって先祖の事を調べていって当時の時代背景と共に先祖が辿ってきた道を詳しく調べてみるなんてのも歴史の教養を深めてくれますね。
それだけじゃない
「自分が生きているこの世界はどういう仕組みで出来ているのか」と考えれば物理学へも社会学へも行けますね。
物理学へ行ったとして
ちょっとアツくなりますが、物理学へ行ったなら量子力学をやったとしましょう。位置とか運動量とかいった物理量が存在確率の波として存在し、複素ヒルベルト空間内のベクトルで表現される。我々の持つ装置ではこのベクトルを直接測定することはできない事がわかります。実在するはずの物理量が物理的実体には還元できない(数学的存在として表現される)というのはどういう事なのか。これは何を意味するのか。現代の物理学者はあまり立ち入らない領域ですが(物理学の対象ではないから)。ボーア・アインシュタイン論争なんてのが有名な話です(アインシュタインが「神はサイコロを振らない」といったのはこの場面です)、私はこれにボーアの勝ちとして決着がついたがついたとは思っていません。物理量の振幅確率が、この複素ヒルベルト空間内のベクトルの射影で表される。実験事実と合う。これって我々の見ている世界では確率としてしか観測できないけども、我々に見えていない世界では、実体として決まっていることなんじゃないのか。
哲学に戻る
何かに似てるぞ、と考えてみるとプラトンの哲学に戻ってきたりできます。プラトンは私たちが見ている世界は本当の実在「イデア」の影なのだ、と言いました。量子力学を学んで、実験結果には合うけれども、それらの言う物理量の、抽象的で数学的な存在は物理的実体には還元されないという事実にぶち当たってみると、本当に我々は測定によって物理量の影を見ているに過ぎないのではないか・・・なんて思えてきたりします。事実、アインシュタイン(や、ボーアの弟子であるハイゼンベルグ)は、我々のいる物質世界のほかに実在世界が存在していると考えていたような発言を残していたりします。サイエンスにこの答えはきっとないでしょう。そしたらまた、プラトンから哲学をやり直せばよろしいのであります。
話が滅茶苦茶ですが
話が滅茶苦茶に飛んで行っていますが、自分を知ると教養が開けますよ、という話だったのですよね、確か。端折り過ぎてツッコミどころは多いでしょうが、自分を知ってみる事は何かを考えるきっかけになりますよっていう話でした。
わざわざ読んでくれた方、大変だったでしょう。謝罪しておきます。