世の中、だいたいの人が組織に所属していると思います。学校を含めれば、少なくとも一度も所属したことない人は・・・赤ちゃんとか就学前の子供くらい?(「いない」、と書きかけて自分の視野の狭さを痛感しました。)
こうした組織には何らかの理念がありますよね。学校だったら生徒手帳に書いてあったり、校訓の石碑があったり校歌がありますし。
いや、学校の話はまぁ置いときましょう。私自身、高校選びまでは学校の理念に共感、同調するとか考えたことなかったので、書いても中身が伴いません。
大学はどうでしょう。大学の建学理念や教育理念。
これはかなり大学選びの基準にされた方もいらっしゃるのではないでしょうか。私立大学だったら特に設立者がはっきりしていて、もうその人の著作や発言、寄稿なんかは誰でも知ってる超有名な言葉で、もはや思想を形成していたりします。
国公立大学でも、マイナーだった公立大学が独自色を出して躍進、というのも出てきましたよね。
ちなみに私はわりと大学の中では没個性グループに属すると思われる、国立の総合大学の出身ですが、その中ではわりと独自色の強い建学理念の大学だったと思います(これ、もしかしたらあらゆる国立総合大学の出身の人がみんなそう言うかもしれませんが)。
自分の当時の偏差値とはもちろん相談しましたが、私に関して言えば偏差値ギリギリで入れそうな大学より、理念で選んだ部分はおおいにあります。その理念が好きでしたし、今でも好きです。出身大学には今も愛着があります。これくらいの年ごろが一番情熱的だということも、一役買っているかと。
じゃあ、多くの人がここを出てから進んでいく組織はどうでしょうか。感じたことを書いていきます。
目次
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企業組織はどうか
そしたら企業・会社組織はどうでしょう。シューカツしたら少なくとも受ける企業の経営理念くらいは見て行きますよね。(それだけじゃどうにもならないけど)
大学に比べると、心に響かないものが多かった印象ですが、まあ崇高なことが書かれています。
そして、面接の場で、「迷った時にこの理念に共感しまして御社しか選択肢になくなりましたー」なんて恥ずかしいことを実際に言ったことも私はあります。
就職の厳しい時代にそれで面接通ったりしたから、今から考えたら怖いなと思う部分でもあるのですが。
会社に入ってから、どうだったかと言うと、その理念を覚えてすらいなかったです!単に配属された職場の上司や先輩に同調して、生きていました。
この会社を辞めてからいろいろ考えた
ここに貼る記事で言ったように、私は会社辞めて再就職までに少しばかり空白がありました。
仕事をせずに、組織に身を置かずにいて、ぼんやりとこんな妄想をしていました。
私はそこで働いていた時、とにかくその場の先輩や上司の言うように主たる業務をこなし、傍らで研究職としてタネを撒くためのアイデア創出に力を入れたりしていました。
理念は忘れたまま。
結局、職場の人に同調して生きてただけで、降ってくる仕事を食って生きて、自分が興味のある物を新しい研究テーマとして提案していただけだったなと思います。(読み返してみると別段悪くはないですね、自分で考えて動いてる部分もある)
理念の部分は・・・
理念。これに関しては、誰かが立派な理念を持っているから、それに沿って行動していて、誰かに同調してれば崇高な理念に基づいて生きられると、そう思っていた節があります。たぶん大企業ほど、多くの人がそうです。
でもこれは幻想でした。実はそんな高い志や崇高な理念は誰も持っていなくて、みんなが同調⇔同調で生きていた。みんなの「誰々に同調した」を辿っていくと一人の人間に辿りつかず、無限ループになるような構造。いやループは違いますね、みんなが複数の人に同調してるから、同調ネットワークが蜘蛛の巣のように張られている感じでした。そしてそのネットワークで、崇高な理念の持ち主には辿りつきません。
だって多分、企業のあの崇高な理念は建前で、本音は社会貢献ではなく、「社会貢献を」と立ち上がった国家プロジェクトの予算を獲得したり、環境や健康に良いとかを謳って商品を売って金もうけをしたりすることですもの。
経営側に居なかったので詳しくは知りませんが、ヘタをすると「理念」が雇われたライターによって書かれている可能性すらある。(そのほうが、よくできた物になる、とも思っています)
それに、(私の前の会社がそうだったからこういいますが)今の大企業、特にメーカーのおエライは、儲からなくなった赤字の事業を切り捨てて組織をスマートにして、それを功績として上に登り詰めて行ったパターンが多いのではないでしょうか。
そんな人に崇高な理念を持っていることを期待するのは無茶ですよ、言い過ぎかもしれませんが、優秀なコストカッター(ただし、その道ではただものではない)ですよ?
不安だった正体がわかった
こうして妄想している間に、私があそこで仕事をしているとき言いようのない不安に襲われていた理由がわかってきました。
まわりと同調だけしていて、なんらかの理念に共感したりしている感覚がなかったこと、さらに、この同調には実体がないことに気づいていて、本当のところは誰にも同調していないのと同じ孤独感、同時に、同調しなければ蹴落とされる、「それってヤバいのでは」と漠然と焦ることに潰されかけていたのでした。
これでは言葉足らずでよくわかりませんね。どう書きましょう。
これって高校生くらいまでの一部の人が、ハブられるのが怖くて一人でトイレに行けなくて、「連れ立ってトイレに行く」のと同じ発想にすぎないのでは。
同調のための同調だから、何に同調してるのかわからなくなり、誰にも同調していないのと同様、孤独だった。それが複雑にネットワーク化している。そしたら「このネットワークには入っておかなければ」と思うのに加えて「自分の生き方はくだらないのではないか、変わらなければ」という矛盾したものを抱えて、焦るばかりだった。
今の私だったらこれらの焦りは出てきませんけどね。個人的に、「自分を改造」的な発想と、「そのために焦る」のは嫌いですから。
いくら書き換えてもわかりにくいですね・・・。良い言葉思いついたら続きを書きます。
まるで同調を悪いことのように書いていますが、一方的な悪ではありません、私が無職の時にしばらく誰にも同調してないと強烈な孤独感と不安を感じましたし、人は常に当然のように誰かに同調して生きています。多くの人の影響を受け、意見を組み合わせ、自分の言葉で語れる、「生き方」を形作っていきますから。誰にも同調していない人なんていないでしょう。
その同調した先に、何も感じられなかったっていうのが私にとって良くなかったなと思ったんですよ。
結局長々書いて言いたいこと
自分の理念を持て、とは結論付けません。
私のように心を壊さないのであれば、同調ネットワークの中にいて降ってきた仕事をする、これでもいいと思います。(ただし、同調の押し付けはイケてないですよ)
だけど、誰かが立派なこと考えているだろうと思って、みんなで同調しあっている構造の中には、立派なこと考えてる人なんていないと考えてください。とてつもなくすんごい人がいてワンマンで組織を引っ張っている人がいる場合があるという例外は認めますが。
大企業でも個人事業主でも、「崇高な理念に基づいて行動したければ」自分自身がそれを持たなければなりません。創り上げなければなりません。同調ネットワークを否定することはつまり、「出る杭」にならなければなりませんから打たれる覚悟は要りますね。
理念とか興味ねぇよっていう人には関係ない話なのでした。