ブロブロスキーのブログ

スキーと釣りが趣味の院卒の30代オッサンのブログ。気まま、手軽、あるがまま

不登校は有意義だったり変なのは天才かもしれないのに問題があるとか不幸とか決めつけられる問題

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こんな変なブログに何処からか、辿り着いてしまったあなた、ちゃんと人格を自分で創りましたか?生まれる場所、家柄、能力、容姿、・・・自分で生まれる前にちゃんと設定しましたか?えっ、まさかしてないの?それじゃ「ジコセキニン!」って言われますよ。

 

とかいう冗談はさておいて。(冗談で言ってると思えない人もいるのが怖いところ)

 

私は、いつ人生がスタートしたのか、覚えていません。人生がスタートしていると気付いた時には既にデブでしたし、既に何やら集団で教育を受ける組織に通っていましたし、既に友達もいましたし、既に嫌いな人もいましたし、既に性格も存在しました。

 

余談ですが、既に釣竿握っていましたし、既にスキー場の上級コースを滑っていました。

 

さて、人間がこう、人生がもうスタートしていると自覚するくらいの歳になると、既に物覚えが良いとか悪いとか、従順とか、落ち着きがないとか、運動神経が良いかどうかなどの評価が下されています。もちろん「デブ」とか「みんなと仲良くできない」も評価の対象にされています。

 

良い、悪いというモノサシで。

 

そして、この年頃の子供は、「教育」と称して色々ことをさせられます。

 

「あなたの名前の由来は?お父さんとお母さんがどういう願いを込めてあなたに名前を付けたのか、きいてきてください」

 

「好きなものは何ですか?教えてください(嫌いなものはきいてくれない)」

 

「お父さん、お母さんに感謝を込めて絵を描きましょう」

 

「将来、何になりたいですか?考えてください」

 

こんな感じですね。これね、子供のことに興味があるからでもなければ、子供の個性を発見して伸ばしてやろうという意図でもないんですよ。

 

妄想とちょっとした実体験を混ぜて意見を書いていきます。

 

 

目次

 

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こんな答えだったらどうするの?

たとえばこの指示、質問に子供が素直に、

 

「漢字と読み方がカッコ良かったからこのキラキラした名前になったって言ってました」

 

「カマキリがバッタを引き裂いて食べるところを見るのが好き」

 

「キレて鬼のような形相の母親の絵(父親は起きてる時間に帰ってこず、描けない)」

 

「若くして世の中に失望し恋人と心中する、伝説の小説家になりたい」

 

といったものを回答としたとしましょうよ。これを先生が見た時、この子から何を見出すでしょうか。「普通の子じゃない」と思う所まではいいかもしれません。それでもこの子にとっては、こういう形質は自分で選んだのではなくて生きていることを自覚した時にはほぼ既に形成されていたものなわけですが。

 

「普通じゃない子」ってレッテルがついたら、このあとどういう目に遭うんでしょう。

 

この子は「修正」を受ける

本人に直接「書き直せ」と言われることまではないかもしれません(私のころはありました。今でもあるかもしれません)が、先生は会議するでしょうし、保護者にも連絡がいくでしょう。

 

その結果、この子を「普通にするため」に密かな修正計画が練られると思います。

 

「豊かで幸せな将来がいいでしょ?」「バッタが可哀相でしょ?」「育ててくれているから感謝しましょう」「名前には願いがこもっているはず」といった具合に「問題のある子」として、その子の人格を否定していきます。

 

この通りではありませんが、私は「修正」を受けたことがあります。そういう方向に持っていくのがありふれた教育機関だと思います。

 

冗談じゃない!この子はそもそもその人格を意図して自分で選びとったのではないし、幼くして生物の多様性に既に興味を持ち、文学を解している天才で、しかもおそらく虐待サバイバーです。この子を大人が共謀して「普通」に修正してしまったらそれはもはや罪ですよ、色々な意味で。しかもおそらくその試みは、この子供が精神に異常をきたす形で失敗に終わるでしょう。

 

現代なら、「家で何かあったの?」くらいは尋ねられるのかもしれません、私はオッサンですから、私のころは「修正」されました。

 

この子は、私がブログ上に勝手に作り上げた子供なので、これはお人形さん遊びなんですけどね。

 

たぶんこういう子は「他の子となじめない」「先生の言うことをじっと聞けない」というレッテルもすでに貼られていると予想されます。学校に行く限り、書き換え工作は延々と続くでしょう。

 

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修正の目的は、普通とは、豊かで幸せとは

ここで言った修正の目的は、集団の統制を容易にすることです。

 

ここで言った普通とは、どこかに勤めて問題なく働けるかどうかを基準としています。

 

ここで言った豊かで幸せとは、権威ある組織で高い地位を得て、家庭を持つこと、でしょうかね。

 

これって「“普通の人”が想定できる範囲内の高い目標を持っていなければならなくて、尚且つ集団から孤立せず、誰かの支配下に置かれて生き、しかもその中で上を目指していくこと」を、「何も選べずに生まれてきて、いつの間にか既に勝手な基準で優劣をつけられた状態で人生がスタートしていたことに気付いたばかりの人間」に求めています。

 

残酷だと思いませんか?おかしいと思わないですか?

 

この時点で劣っていると勝手に決めつけられている子供には、「みんなの行列の後ろを歩きましょう」とでも言うのですか?

 

その瞬間にいつの間にか所属してた、とある組織に向いていないと言うだけでですよ?

 

集団からオリる事って、そんなに問題なのか?

不登校や退学、退職することを、まるで社会的に死んだかのようにみなす風潮があります。特に「親」をやっている人は気を付けてほしいですね。

 

実際、転職したとこれまで書いてきましたが私には退職後に再就職するまでの間、空白期間がありました。この時偶々何度か会った前の会社の人には決まって「生きてた?」って尋ねられました。勝手に殺さないでくれるかな?

 

本当のところは、学校に行かない事や会社を辞めることは、単に多数派集団での活動からオリただけであり、生き方として否定されることではないと思うのです。

 

別に、多数派にとっての成功を目指す必要なんて、ないんですよ。生まれたから生きてるのであって、生きてる間、食いつないでいくだけでも、いいじゃないですか。それってイコール不幸ですかね?

 

組織から弾かれた人間が、「アリが行列を作ってタカっている砂糖」のような「みんなの目標」を目指さないからと言って、怠けてるだの意識が低いだのなんだの、言われる筋合いはありませんよ。

 

学校に行かないとか会社辞めたとかで、「こいつは不幸で、それは自己責任だ」という目で見ること自体、まったく的を外しているんですよ。

 

的を外してるってのはどういう感じかと言いますと、「俺は170センチメートルで、あいつは60キログラムだから、俺の方が数字が大きい、あいつのほうが不幸!キログラムを選んだのは自己責任」とか言ってしまってる感じです。