実家近くにはちょっとばかり有名な温泉があり、そこには外国の方も含めて、観光客がよく訪れます。
温泉街の、温泉宿の施設って、入浴だけでも入れてくれるんですが、けっこう高いんですよね。でも、温泉街にはたいてい、足湯スポットと呼ばれる場所が存在します。
そこは誰にでも解放されていますし、費用も掛からないので、手軽に温泉を楽しむにはとても良い場所なのです。
手軽、気ままに入れて、温泉気分、タダ。私はぶらぶらと温泉街の雰囲気を楽しみながら歩きまわった後、この足湯に入るのが好きなのです。
「お金がかからない」以外の理由で。少し書いておきましょうか。
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対等なコミュニケーションが取れる
足湯はけち臭い?いやいや、侮っちゃいけませんよ。足湯では入れ代わり立ち代わり、いろんな人が来ます。これがポイントなのです。
そして、足湯でホッとした人たちの多くが、気軽に話しかけてくれたり、話しかければ気さくに応じてくれます。私と話してたら邪魔なんじゃないかと思ってしまうようなカップルが、向こうから話しかけてくれたりもします。
その人たちとなんでもない会話をすることで、意外と「ああ、自分の存在は許されているんだ」という自己肯定感が芽生えるのですよ。存在の肯定。これ大事なことです。
知らない人が、自分の存在を許している、疑問を持っていない -心が荒んでいるときには、こういう感覚ってとても大切にしなきゃいけない事です。
自分では自分の存在に疑問を持っているわけですからね。そう、「存在してはいけない」を植え付けられている人にとっては、こういった経験はその殻を少し破ってくれるのです。
都市部の喧騒のなかでは、自己否定は加速されるばかりです。移動するだけで無数の人間にもまれていたら、「自分一人いなくたって…」という気持ちにもなりますよ。
意外なものに遭遇することも
ある日、足湯に入りに行ったときに、既に外国人とみられるカップルが足湯を利用していました。
10分ほど利用すると、足が温まってくるし、体もポカポカしてくるのでしょうね。その外国人カップルの男性がおもむろに服を脱ぎ始めたのです。
もちろん足はつけたままなので、下は脱ぎませんでした。しかし上半身は肌着のタンクトップ状態になるまで服を抜いでしまいました。
そして、足湯をすくって、顔を洗い始めたのです。
ちょっとびっくりしましたが、私が止めようと行動を起こす前に、すぐに温泉協会の人が飛んできて、ボディランゲーシをふんだんに使ってたどたどしく説明。
私はああやって説明されてもわからないだろうなぁ、と思いましたが何とか理解を得たようで、その場で彼は着衣。
これを目撃して、笑ったしビックリしたし、なにより、自分が常識だと思ってることっていうのは誰かにとっては不可解なことで、通用しないのだというのを思い知らされました。
彼らは堂々と生きている
確かに、足湯はみんなで使うところだから、顔を洗うほど清潔であるとは言い難いです。足専用ですから。
でもそこで顔まで洗っちゃえる人がいる。
みんなのいる外の足湯で肌着一枚にまでなって顔を洗っている姿を見て、なんて自由なんだ!とある種の感心を覚えました。
あれができるのは単にルールを知らないから、じゃないんですよ。私だって足湯の厳密なルールなんて知りません。あの発想は、人目を気にするがゆえに私にはできないことだったのです。
そして温泉協会の人の英語と伝え方ですよ。単語並べて、身振り手振りで。会話は、あれでもいいんだと。むしろ、あれで伝わるってことに勇気をもらえました。
私があの言語力だったら、これまた人目を気にしてできない芸当です。
ビジネスの場面じゃそうはいかないけれども、足湯の場では、ああ、あれで「対等」で、あれで「気持ちは通じる」のだなと。
堂々と生きるっていうのは悪いことじゃない、むしろそれがあってこそ人は信用しあえる、だから対等でいられるんでないでしょうか。