ブロブロスキーのブログ

スキーと釣りが趣味の院卒の30代オッサンのブログ。気まま、手軽、あるがまま

努力が明後日の方向をむいてることもあるよね【努力妄信の危険性】

なにかに取り組んでる最中に「これは努力だ」と思って努力した事って、あります?私はありません。せいぜい後になって「あの時は頑張ったなぁ」と思うくらいなもんです。なので、努力したから報われたんだ!っていう成功体験もありません。「あの練習したから上手くいった」とは思っても「努力したから上手くいった」なんて思ったことはありません。

 

本題です。世の中には「努力してるやつを批判するんじゃねー」てな言い方でもって、一生懸命な人を無条件に擁護する言説があります。たまに見かけると思います。いや、あなたの属するクラスタによっては見かけないかもしれませんが、それこそ趣味等の属性カオスな世界ではよく見かけるんです。これは過去の記事にも書きましたが、努力することに意味があるとか努力すれば目標に必ず近づけるとかそんなの綺麗事、いや欺瞞そのものです。目的地と違う方向にいくら全力で走っても、そこにはたどり着きませんよね。

 

「結果、上手くいかなかったけどめっちゃ頑張ってたことが後で判明して、頑張った部分を取り上げて褒める」のとは違いますよ、それだったら褒めたけりゃ褒めたらいいですよ。それはそれです。

 

進行形で見当違いの努力をしてるのがわかってて「努力してるから」って理由で無批判で持ち上げるのは擁護されてる当人の利益を考慮に入れておかしいという話です。

目次

 

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努力は盾として機能しているか?それとも矛か?

なぜこのような思考停止の言い分が、さも正論であるかのように出てきてしまうのでしょうか。妄想を交えて考察をしてみます。

 

まずありきたりな事を言いますが、「努力してるつもりだったのに努力が足りないって言われて傷付いたことがある人」が、この「努力してる人を批判するな」を言っているというのは何となく想像がつきます。でも私が考えるこの発言へのプロセスは普通想像される物とはちょっと違うと思うので一説として読んでみてください。

 

これを言う人は努力していることが、批判を防げる「最強の盾」だと思っているのでしょうか。それは違うでしょうね。たぶん逆でしょう。防げないと思っている。傷ついたことがあるんだから、自分の力の無さを「努力不足という矛」でぶっ刺された事がある人がこれを言っているんですよね。努力不足っていう言い草が人を傷つける方法だと知ってて。だってみんなこの論法、(その人から見た主観的な)「格下」の擁護にしか使わないでしょ?格下は努力足りてねーって決めつけてるんですよ。こんな記事を過去に書いてました。

www.brobroski.net

 

この擁護は、「コイツは(いままで努力が足りなかったけど)今、努力してるじゃないか!努力してるんだぞ!」が本音なんですよ。元々はたぶん、「努力不足」でぶっ刺された人が傷を埋めるために自分を正当化する思考停止様式なんです。

 

これじゃまだ訳わかりませんね。次の部分が肝心です。

 

投影性同一視で他人を使って傷付いた自分を再現

仕組みはこうです。自分が言われてひどく傷付いた言葉を他人に対して言い放ち、その相手と自分とを同一視する。その相手という鏡を通して傷付いた己を見て自己憐憫し、自分を慰めているんです。ちょっと複雑なやり方だけど投影性同一視というやつです。努力の量にのみフォーカスしてて且つ格下にしか使わない時点で、「足りてない努力を今している」と暗に言ってて、自分がされて傷付いた攻撃を、一旦擁護対象に向けてしているわけです。擁護してる内容は、自分がぶっ刺されたときに言いたかったことなんですよ。

 

ぶっ刺された時の言い訳として「今努力してる」と言っているのです。他人を使って。自分ががむしゃらにやるしかなかったから、その自分の過去を肯定してるんです。他人を使って。だから他者からの批判を許せない。

 

誰かから「努力が足りない」って言われてひどく傷ついた人だから、こういうことしてるんですね。これ考察の最初に書いてありきたりだ、といったように、この1文だけでもほぼ説明が付くんですけど。「だから気持ちがわかる」なんて高尚なもんじゃないんです。

 

だって気持ちがわかるなら、「単にがむしゃらな状態」から抜け出すための努力の方向性にも言及するはずですから、無批判なんてありえないんです。

 

欺瞞をぶつけて同一視→それは自己欺瞞

努力する人に対しての、この擁護は欺瞞だったわけですから、同じ論法で鏡に写った自分を慰めているこの行為は同時に自己欺瞞でもあるわけですね。努力してることこそが大切で、その方向性や内容に触れないのはここに起因すると考えられます。

 

自己欺瞞というのは、「はてなキーワード」にあるサルトルの言葉を借りれば「人生に意味や論理的な統一性を与えることで、人生や人間のあり方を合理化しようとする場合である」だそうです。ちょっと読みにくい文ですね。意味不明ですかね。

 

「努力を続けることに人生の意味がある」とかいうのがそれですよ。「自分がここまで来られたのは努力してきたからだ」とかいうのがそれですよ。そうやって意味づけしたり理由づけしたりして自分が辿ってきた道は正しいと自分を騙している状態の事です。

 

自分を騙していればいいので、ここで言う論理的な統一性というのはその人の内部で完結していれば問題ありません。外からのツッコミどころなんて関係ないんですよ。

 

この自己欺瞞が、自分の世界が、批判によってぶっ壊れるのが怖いから、無批判、他者からの批判も許さないという姿勢、結果的にそういう擁護になるんだろうと思います。

 

・・・と、いうルートをたどってみたら何となく私の中では腑に落ちました。論点先取をしまくって妄想で論理を飛躍させてる部分がたくさんあるので、正論吐いたつもりでいるわけではないです。誤謬は突いたらいくらでも出て来ますよ、だって妄想交えるって宣言しましたよね。私が納得いったルートがこれだったという話です。

 

ここまで、いち考察、妄想にすぎません

この記事で述べていることは「努力教」が上から下に降りていくのにはこういうルートもあるよ、こうすると説明つくかもよ?という一つの考察にすぎません。同じ様な意味の言葉を述べるにしても全く違う思考形式で述べている人もいるでしょうし、考察は恣意的にやればいろんなルートが考えられるでしょう。

 

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他には例えば

単にとっても優しい人が、頑張っても上手くいかない人にこういう言葉をかける時もあるでしょうね。その人に権威があればイチコロの人がいるでしょう。そうして感化されちゃったというパターン。思考止まってるのは同じですが、努力をカサにきて、「自分を」擁護してる人はコレでしょうね、権威ある(優しい)人が自分に都合いいこと言ってるのに乗っかっちゃった。この手の人はさっきのと違って「努力の自己申告は最強の盾」だと思っているかもしれませんね。その努力では進歩しないのを自覚してるからこういうこと言っちゃう。結果主義の世界ではこういう人はいなくなりますが。

 

誤解のなきように

私は努力そのものや、努力してる人を否定してるんではないですよ、誤解しないでくださいね。努力つっても適切な方向とか必要な量があるでしょっていう話をしてるんですよ。「努力だから」「努力してるから」っていうだけで無批判だったり、批判を許さないという姿勢はおかしいといってるんです。